2012.02.07
1998年、日本を除く世界各国は共通ハンディキャップ制度に踏み切った。そう「日本を除く」だから欧米豪州はもちろんのこと、韓国・台湾・中国・インド・フィリピン・マレーシアなど、アジア諸国も含む世界のゴルフ国が一体となって踏み切ったという意味だ。ひとことでいえばゴルフがグローバル化したため、世界のゴルフ国がグローバルスタンダードを採用したことを意味する。「なんだ、それだけのことか。自分には関係ない」と思ったとすれば、その人は明治維新後もちょんまげ姿に刀を差して高楊枝をくわえた素浪人と同じだ。封建制度が崩壊して身分制度が変わっても、平然として旧制度に生きていられる豪傑には違いないが、周囲は少しもカッコイイとは思わない。
私たち日本人がワールドゴルファーとして世界に受け入れられるには、誰の目にもスマートなゴルファーでなければならない。まずエチケットルールから始まってハンディキャップが取得できるまで、ゴルファーとしての品格技量を身に付けなければならないが、それにはまず技量以前のプレーマナーが問われる。私たちが社会人である以上、挨拶をするにも会話をするにも食事をするにも、相手を不愉快にさせない最低限のマナーが要求される。ゴルフも同じことでエチケットルールをわきまえ、他人に迷惑をかけずにセルフプレーできることが求められる。国際社会では礼儀正しいと評価される日本人が、ゴルファーになるとなぜワーストランキングに入ってしまうのだろうか。
日本のゴルフは戦後の高度経済成長の波に乗って発展したから、どうしても成金ゴルフの姿が残ってしまった。その典型がキャディー付き接待ゴルフである。ゴルフ場は接待場、キャディーは接待係の役を負っているから、ゴルファーのマナーは問われずに、むしろ接待場と接待係のマナーが問われた。お客様は神様だから、どんな横柄でわがままな振る舞いも許される環境が生まれた。ここから世間知らずの田舎ザムライが大量に生み出されたようだが、今流に言えば「品格無きゴルファー」ということになり、私もその一人かと思うと寂しい。
最近は客不足に悩むゴルフ場を「さすらいゴルファー」が荒らしまわっていると聞く。ネットで安いゴルフ場を探し、コンペと称して賞品や景品をたかり、更なる割引や割戻しを要求する。そういうコンペに限って金を賭けるから、必要以上に慎重になってハーフ3時間以上のスロープレーになる。マーシャルに注意されると反抗的になり、二度と来るかと悪態つく厄介者だが、これも景気低迷が生んだ「品格なきニューゴルファー」か。ゴルファーにもグローバルスタンダードが必要になったようだが、「田舎ザムライ」や「さすらいゴルファー」のローカルスタンダードは、世界で全く通用しないことだけは承知しておかないと、日本人の評価が世界的に高まっている時だけにまずい。
「ゴルフの制度改革」
2012.01.25
2012年、今年からJGA(日本ゴルフ協会)がハンディキャップ改革に乗り出すことになった。これは改革と言う言葉を使わなければならないほど大変なことで、協会だけでなく全ゴルフ場、全ゴルファーが一体となって意識改革しなければならないほど重大なことなのだ。日本のゴルフが欧米豪州から30年以上も遅れたといわれる最大要因のひとつに、ハンディキャップ制度の遅れがある。つまり、本来ハンディキャップは全てのゴルファーに公開された制度でなければならなかったものが、日本では協会の利権として聖域化され一般ゴルファーとは無縁の存在となっていたことが原因である。
日本人が外国でゴルフをするとき、フロントでハンディキャップ証明の提示を求められて面食らうことが多い。日本人ゴルファーの95%以上はハンディキャップを持っていないし、大半の人がハンデキィャップの意味すら分からない。私が高校生の頃「自動車免許がとりたい」と言ったら、親は「気でも狂ったか」と言う顔をしたが、クルマが運転できる証明にどうしても免許が必要だった。免許欲しさに当時建設中だった環七道路で運転の練習をしていたが、いま聞けば驚く話に違いない。日本が先進国としてクルマ社会を実現するには免許制度を確立させなければならなかったのである。世界は既に14年前、クルマの免許制度のように世界共通ハンディキャップ制度を確立して、ゴルファーである証明にハンディキャップを利用するようになった。
ゴルフは世界的に大衆化するに連れてクラブも安くなり高性能化した。今では中国で大量生産された高性能クラブセットが2,3回のゴルフ代で買える時代だ。私の環七練習よろしく、エチケットルールも分からないままインターネット予約を取り、コースに試し打ちに出掛ける若者が増えてきた。クルマは運転免許がなくても簡単に200キロ以上のスピードが出る。ゴルフもハンディキャップがなくても簡単に200メートル以上も飛ばせる。いずれも危険な点で似ている。
かつては日本のゴルフ場もプレーをするのにハンディキャップが必要だった。
フロントのサイン帳に「ハンディキャップ記入欄」があったし、スタート表には「各組ハンディキャップ合計90以内でお願いします」と書いてあった。若かった頃の私はこの制度に疑問を感じていた。ハンディキャップを取るには高価な会員権を買い、クラブ競技に出なければならなかったからである。練習場やパブリックコースのゴルファーにはハンディキャップ取得の道がなかったから、私はUSGAハンディキャップマニュアルを読み、スコア台帳を作って、そろばんや手計算でクラブサークルコンペのハンディキャップを査定していた。ハンディキャップにはクルマの免許制度のような高いモチベーション効果があって、ゴルファーに自覚と責任を持たせることができる。クルマと同様ゴルファーにもハンディキャップという国際ライセンス制度が必要な時代になったが、これからは世界の人たちに、日本人ゴルファーを『エチケットルールも知らずハンディキャップもない田舎ザムライ』とは絶対に言わせたくないものだ。
2012年、今年からJGA(日本ゴルフ協会)がハンディキャップ改革に乗り出すことになった。これは改革と言う言葉を使わなければならないほど大変なことで、協会だけでなく全ゴルフ場、全ゴルファーが一体となって意識改革しなければならないほど重大なことなのだ。日本のゴルフが欧米豪州から30年以上も遅れたといわれる最大要因のひとつに、ハンディキャップ制度の遅れがある。つまり、本来ハンディキャップは全てのゴルファーに公開された制度でなければならなかったものが、日本では協会の利権として聖域化され一般ゴルファーとは無縁の存在となっていたことが原因である。
日本人が外国でゴルフをするとき、フロントでハンディキャップ証明の提示を求められて面食らうことが多い。日本人ゴルファーの95%以上はハンディキャップを持っていないし、大半の人がハンデキィャップの意味すら分からない。私が高校生の頃「自動車免許がとりたい」と言ったら、親は「気でも狂ったか」と言う顔をしたが、クルマが運転できる証明にどうしても免許が必要だった。免許欲しさに当時建設中だった環七道路で運転の練習をしていたが、いま聞けば驚く話に違いない。日本が先進国としてクルマ社会を実現するには免許制度を確立させなければならなかったのである。世界は既に14年前、クルマの免許制度のように世界共通ハンディキャップ制度を確立して、ゴルファーである証明にハンディキャップを利用するようになった。
ゴルフは世界的に大衆化するに連れてクラブも安くなり高性能化した。今では中国で大量生産された高性能クラブセットが2,3回のゴルフ代で買える時代だ。私の環七練習よろしく、エチケットルールも分からないままインターネット予約を取り、コースに試し打ちに出掛ける若者が増えてきた。クルマは運転免許がなくても簡単に200キロ以上のスピードが出る。ゴルフもハンディキャップがなくても簡単に200メートル以上も飛ばせる。いずれも危険な点で似ている。
かつては日本のゴルフ場もプレーをするのにハンディキャップが必要だった。
フロントのサイン帳に「ハンディキャップ記入欄」があったし、スタート表には「各組ハンディキャップ合計90以内でお願いします」と書いてあった。若かった頃の私はこの制度に疑問を感じていた。ハンディキャップを取るには高価な会員権を買い、クラブ競技に出なければならなかったからである。練習場やパブリックコースのゴルファーにはハンディキャップ取得の道がなかったから、私はUSGAハンディキャップマニュアルを読み、スコア台帳を作って、そろばんや手計算でクラブサークルコンペのハンディキャップを査定していた。ハンディキャップにはクルマの免許制度のような高いモチベーション効果があって、ゴルファーに自覚と責任を持たせることができる。クルマと同様ゴルファーにもハンディキャップという国際ライセンス制度が必要な時代になったが、これからは世界の人たちに、日本人ゴルファーを『エチケットルールも知らずハンディキャップもない田舎ザムライ』とは絶対に言わせたくないものだ。
「ゴルフの教育基盤」
2012.01.10
「ゴルフは習うもんじゃない、慣れるもんだ」。ずっと昔からそう言われ今もそう信じている人は意外に多い。そういう人は「ゴルフの基本て何ですか」と聞かれてほとんどの人が「うーむ」と言って腕組みをする。教育の基本は昔から「読み書きそろばん」と言われてきた。現代は「ケータイパソコンネット」と言うべきかも知れない。小学校に入る前からケータイを持たされ、小学校に入るとすぐパソコンとインターネットの使い方を習う。21世紀最先端技術で武装した情報処理手段の使い方を習うのは凄いことだとは思う。しかし問題は最先端技術を使って何を習うかがはっきりしていないことだ。
「ケータイパソコンネット」があれば世界中の古典知識から最新情報まで入手できるし、知らなかったことが即座に分かる。そのスピードは驚くべき速さで「インターネットは学習の高速道路」と言われるとおりだ。だから大人たちは自分たちがうまく使いこなせない「三種の神器」を子供たちには早くから使いこなせるようにと教育基盤に導入したのだろう。しかし評価はさまざまだ。子供たちは三種の神器にはすぐ慣れたが、何を習ったらいいか分からないから、興味本位に習わなくていいことを習い、知らなくていいことを知ってしまった。お陰で子供たちは早熟現象を起こし「何でも知っているが何もできない人間」に育ってしまったようだ。
早熟現象が良い方に出た例も多い。スポーツや囲碁将棋の世界では10代のトッププレーヤーが続々と誕生している。これはメディアの進化によって子供の頃から世界的トッププレーヤーの姿を見ることができるからだろう。「子供は物真似の名人」と言われるが一流の業を見ることによって、どんどん吸収できるからに違いない。ケータイパソコンネットのお陰だろう。「百聞は一見にしかず」とはこのことで、まさに何を習うかがとても重要なんだと思う。「習うより慣れろ」と言ってがむしゃらにボールを打つ人がいるが、「ハタチ過ぎれば唯の人」がいつまでも子供染みたことをしていては進歩がない。ハタチ過ぎたら何を習うかハッキリさせて、一歩一歩基本を習うべきだ。それにはケータイパソコンネットがとても役に立つ。旅をするにも初めての家を訪ねるにも事前にケータイパソコンネットで調べれば驚くほど楽だ。モノを習うのは旅をするのと一緒だから、基本ルートを調べておけば無駄足を踏んだり遠回りしなくて済む。特に高齢社会を迎えて60歳からゴルフを習う人も多いはずだから、ケータイパソコンネットを使えば老後の人生が豊かになる。ウェブ上に立ち上げたゴルフ大学で全国の高齢者が学ぶ日はそう遠くないないはずだ。
「ゴルフは習うもんじゃない、慣れるもんだ」。ずっと昔からそう言われ今もそう信じている人は意外に多い。そういう人は「ゴルフの基本て何ですか」と聞かれてほとんどの人が「うーむ」と言って腕組みをする。教育の基本は昔から「読み書きそろばん」と言われてきた。現代は「ケータイパソコンネット」と言うべきかも知れない。小学校に入る前からケータイを持たされ、小学校に入るとすぐパソコンとインターネットの使い方を習う。21世紀最先端技術で武装した情報処理手段の使い方を習うのは凄いことだとは思う。しかし問題は最先端技術を使って何を習うかがはっきりしていないことだ。
「ケータイパソコンネット」があれば世界中の古典知識から最新情報まで入手できるし、知らなかったことが即座に分かる。そのスピードは驚くべき速さで「インターネットは学習の高速道路」と言われるとおりだ。だから大人たちは自分たちがうまく使いこなせない「三種の神器」を子供たちには早くから使いこなせるようにと教育基盤に導入したのだろう。しかし評価はさまざまだ。子供たちは三種の神器にはすぐ慣れたが、何を習ったらいいか分からないから、興味本位に習わなくていいことを習い、知らなくていいことを知ってしまった。お陰で子供たちは早熟現象を起こし「何でも知っているが何もできない人間」に育ってしまったようだ。
早熟現象が良い方に出た例も多い。スポーツや囲碁将棋の世界では10代のトッププレーヤーが続々と誕生している。これはメディアの進化によって子供の頃から世界的トッププレーヤーの姿を見ることができるからだろう。「子供は物真似の名人」と言われるが一流の業を見ることによって、どんどん吸収できるからに違いない。ケータイパソコンネットのお陰だろう。「百聞は一見にしかず」とはこのことで、まさに何を習うかがとても重要なんだと思う。「習うより慣れろ」と言ってがむしゃらにボールを打つ人がいるが、「ハタチ過ぎれば唯の人」がいつまでも子供染みたことをしていては進歩がない。ハタチ過ぎたら何を習うかハッキリさせて、一歩一歩基本を習うべきだ。それにはケータイパソコンネットがとても役に立つ。旅をするにも初めての家を訪ねるにも事前にケータイパソコンネットで調べれば驚くほど楽だ。モノを習うのは旅をするのと一緒だから、基本ルートを調べておけば無駄足を踏んだり遠回りしなくて済む。特に高齢社会を迎えて60歳からゴルフを習う人も多いはずだから、ケータイパソコンネットを使えば老後の人生が豊かになる。ウェブ上に立ち上げたゴルフ大学で全国の高齢者が学ぶ日はそう遠くないないはずだ。
『基本と教育』
2012.12.27
「基本が大切」と誰もが言う。「では基本は何か」と言うと誰もが口ごもる。
なぜなのか。基本を学んだ経験がないからである。昔は「読み書きそろばん」が教育の基本とされていたが「読み」とは世界の古典を読んで道理を理解すること。「書き」とは思考を文章で表現すること。「そろばん」とは物事を数値で把握することだったようだ。ゴルフで言えば「読み」とは先人の名著や基本テキストを読んでゴルフの原理原則を理解することであり、「書き」とは自分のスイングやプレースタイルで確立することであり、「そろばん」とはスコアデータによってゴルフを進化させることだろう。
基本は先人達の努力や研究の集積だから、私たちの浅い知識や経験の遠く及ぶところではない。三ヶ月で学べることが二年も三年もかかり、三年で習得できることが一生かけても叶わない。だから教育環境のない社会で育った人の人生は損をする。震災後、日本人が世界で再評価されるようになったのは、日本には早くから教育環境が整っていたからに違いない。特に明治維新によって四民平等に「読み書きそろばん」が学べるようになって、私たち庶民に至るまで、欧米列強諸国の人やホワイトアングロサクソン民族といつでもスクラッチ勝負できるまでに教育されたお陰だろう。
それなのに日本のゴルフに限ってなぜ教育環境が整わなかったのか、私にはどうしても理解も納得もできない。今年になってようやくNPO法人日本ゴルフ大学校が認可されたが、法人格という箱ができただけでまだ中身はない。中身を詰めるのに少し時間がかかるだろうが、この箱は大切にして今度こそ本物の中身を詰めなければいけないと思う。中身に賞味期限切れや腐りかけの物が入っていれば、中身全体が腐ってしまう。ところが、古典や基本は決して賞味期限切れでも腐りかけではなく、どんなに時代が変わっても人の骨肉を構成する基礎養分であることに変わりない。目新しいもの、高度なものが私たちを成長させてくれる訳ではなく、現代病や成人病の原因になる場合だってある。
日本のゴルフ界は低迷し続けている。全国津々浦々にゴルフの「読み書きそろばん」が学べるゴルフ塾ができるには、どれくらい時間がかかるだろうか。日本という国では物事がなかなか動こうとしないが、一端動き出したら速いともいわれる。明治維新も戦後復興もそうだった。震災復興もそうあって欲しいが、案外とゴルフの復興も東北から火の手が上がるかもしれない。礼儀正しく堂々とした武士道ゴルフやサムライゴルファーという姿で。
「基本が大切」と誰もが言う。「では基本は何か」と言うと誰もが口ごもる。
なぜなのか。基本を学んだ経験がないからである。昔は「読み書きそろばん」が教育の基本とされていたが「読み」とは世界の古典を読んで道理を理解すること。「書き」とは思考を文章で表現すること。「そろばん」とは物事を数値で把握することだったようだ。ゴルフで言えば「読み」とは先人の名著や基本テキストを読んでゴルフの原理原則を理解することであり、「書き」とは自分のスイングやプレースタイルで確立することであり、「そろばん」とはスコアデータによってゴルフを進化させることだろう。
基本は先人達の努力や研究の集積だから、私たちの浅い知識や経験の遠く及ぶところではない。三ヶ月で学べることが二年も三年もかかり、三年で習得できることが一生かけても叶わない。だから教育環境のない社会で育った人の人生は損をする。震災後、日本人が世界で再評価されるようになったのは、日本には早くから教育環境が整っていたからに違いない。特に明治維新によって四民平等に「読み書きそろばん」が学べるようになって、私たち庶民に至るまで、欧米列強諸国の人やホワイトアングロサクソン民族といつでもスクラッチ勝負できるまでに教育されたお陰だろう。
それなのに日本のゴルフに限ってなぜ教育環境が整わなかったのか、私にはどうしても理解も納得もできない。今年になってようやくNPO法人日本ゴルフ大学校が認可されたが、法人格という箱ができただけでまだ中身はない。中身を詰めるのに少し時間がかかるだろうが、この箱は大切にして今度こそ本物の中身を詰めなければいけないと思う。中身に賞味期限切れや腐りかけの物が入っていれば、中身全体が腐ってしまう。ところが、古典や基本は決して賞味期限切れでも腐りかけではなく、どんなに時代が変わっても人の骨肉を構成する基礎養分であることに変わりない。目新しいもの、高度なものが私たちを成長させてくれる訳ではなく、現代病や成人病の原因になる場合だってある。
日本のゴルフ界は低迷し続けている。全国津々浦々にゴルフの「読み書きそろばん」が学べるゴルフ塾ができるには、どれくらい時間がかかるだろうか。日本という国では物事がなかなか動こうとしないが、一端動き出したら速いともいわれる。明治維新も戦後復興もそうだった。震災復興もそうあって欲しいが、案外とゴルフの復興も東北から火の手が上がるかもしれない。礼儀正しく堂々とした武士道ゴルフやサムライゴルファーという姿で。
「基本の定義と意義」
2011.12.06
基本を定め定義付けるには多くの時間と労力を要した。1960年代に米国NGFが全米の学校体育授業にゴルフを導入するに当たって、多くの優れた高校大学ゴルフコーチやLPGAのベテランプロが教育コンサルタントとして集められプロジェクトチームが組織されている。この時代はベンホーガン・バイロンネルソン・サムスニードからアーノルドパーマー・ジャックニクラス・ゲーリープレーヤーに主役が移ろうとしていたときである。その時代のトッププレーヤーたちから普遍の共通点を見出し、基本を定義づけることが如何に困難なことだったか想像してみれば分かる。
例えば近代スイングの原形と言われる前の三人は、いずれも非の打ち所のない完璧とも思えるスイングの持主だったが、ホーガンはフェードボール、ネルソンはストレートボール、スニードはドローボールを持ち球としていた。後の三人は米国の黄金時代を築いたが、三人のスイングは個性あふれるものであったが共通点は見出しにくい。帰納法によって共通点を見出し、テイラーの科学的管理法にしたがって共通点を分析することは、そう簡単なことではなかったはずだ。それだけにゲーリーワイレンがオレゴン大学で『法則原理選択の理論』を書いて博士号を取得したのは大変に意義深い。
同時代の日本のトッププレーヤーとして杉原輝男、青木功、尾崎将司の三人を上げることができるが、この三人のスイングから共通点を見出すことは至難の業である。名を上げた内外のトッププレーヤー達は、いずれも個性的スイングとして完成しているからこそ、時代のトッププレーヤーとして一世を風靡していた訳で、常識的には他のプレーヤーと共通点などあろうはずがなかった。他のプレーヤーの多くは、トッププレーヤーの個性を秘訣と思って必死に盗み取ろうとしていた訳だから、誰もが共通点など見向きもしなかったはずだ。
このような時代背景の中で基本の探求は進められている。基本とは名人達人の業でありながら、万人に対して普遍的に適応できる技術でなければならない。万人とは年齢性別能力において千差万別を言い、普遍的とは誰に対しても適応できることを言う。だから基本とは初心者に対してだけではなく、名人達人に対しても基本でなければならない。基本をおろそかにする者は決して名人達人の域に達することはないし、名人達人と言えども基本をおろそかにする者はやがて凡人に舞い戻り、決して元の名人達人に戻ることはできないと言われている。タイガーウッズほどのプレーヤーと言えどもこの原則から逃れられない。
基本を定め定義付けるには多くの時間と労力を要した。1960年代に米国NGFが全米の学校体育授業にゴルフを導入するに当たって、多くの優れた高校大学ゴルフコーチやLPGAのベテランプロが教育コンサルタントとして集められプロジェクトチームが組織されている。この時代はベンホーガン・バイロンネルソン・サムスニードからアーノルドパーマー・ジャックニクラス・ゲーリープレーヤーに主役が移ろうとしていたときである。その時代のトッププレーヤーたちから普遍の共通点を見出し、基本を定義づけることが如何に困難なことだったか想像してみれば分かる。
例えば近代スイングの原形と言われる前の三人は、いずれも非の打ち所のない完璧とも思えるスイングの持主だったが、ホーガンはフェードボール、ネルソンはストレートボール、スニードはドローボールを持ち球としていた。後の三人は米国の黄金時代を築いたが、三人のスイングは個性あふれるものであったが共通点は見出しにくい。帰納法によって共通点を見出し、テイラーの科学的管理法にしたがって共通点を分析することは、そう簡単なことではなかったはずだ。それだけにゲーリーワイレンがオレゴン大学で『法則原理選択の理論』を書いて博士号を取得したのは大変に意義深い。
同時代の日本のトッププレーヤーとして杉原輝男、青木功、尾崎将司の三人を上げることができるが、この三人のスイングから共通点を見出すことは至難の業である。名を上げた内外のトッププレーヤー達は、いずれも個性的スイングとして完成しているからこそ、時代のトッププレーヤーとして一世を風靡していた訳で、常識的には他のプレーヤーと共通点などあろうはずがなかった。他のプレーヤーの多くは、トッププレーヤーの個性を秘訣と思って必死に盗み取ろうとしていた訳だから、誰もが共通点など見向きもしなかったはずだ。
このような時代背景の中で基本の探求は進められている。基本とは名人達人の業でありながら、万人に対して普遍的に適応できる技術でなければならない。万人とは年齢性別能力において千差万別を言い、普遍的とは誰に対しても適応できることを言う。だから基本とは初心者に対してだけではなく、名人達人に対しても基本でなければならない。基本をおろそかにする者は決して名人達人の域に達することはないし、名人達人と言えども基本をおろそかにする者はやがて凡人に舞い戻り、決して元の名人達人に戻ることはできないと言われている。タイガーウッズほどのプレーヤーと言えどもこの原則から逃れられない。

